おばちゃんDays

調理師たき子によるオオサカのおばちゃんブログ

1月17日に想う。私だったのかもしれないと

大阪市内の様子

こんにちは、たき子です。

阪神淡路大震災から今日で23年。
あの朝の異変は、忘れようもない記憶です。

起床時間の直前だった朝の5時47分、それは突然やってきました。

突然の激しい揺れ。

暗闇の中で、壁一面の本や漫画が一斉になだれ落ちてくるのを感じながら、身を潜めて揺れがおさまるのを待ちました。

揺れがおさまり、電気をつけると、部屋は足の踏み場もありません。

 ピピピッ ピピピッ

目覚まし時計が鳴りはじめましたが、本に埋もれた目覚まし時計はさがしだせず、アラームは鳴り続けました。

床に落下していた、当時の大きいブラウン管テレビをつけると、テレビ番組は地震のニュース一色になっていました。

阪神高速の橋桁落下。
ビルやマンションの倒壊。

続々と被害情報が入るにつれ、ただごとならぬ事態であることが、わかってきました。

当時私が住んでいたのは、大阪市の北東に位置する城東区のワンルームマンションの2階。
大阪府内でも南や東は揺れが小さかったのですが、私の住んでいた地域は中程度の揺れでした。

家屋の倒壊はまぬがれたものの、住居としてのダメージは受けていたのか、地震の後、近所の木造住宅の多くが建て替えられています。


兄一家の安否確認に西宮へ

電車も止まり、職場へ行く手段もない私が向かったのは西宮でした。

被害の大きいであろう西宮に、兄一家が住んでいたのです。
当然、電話は不通。
まだ携帯電話も普及していない当時、行ってみる以外に安否確認の手段はありませんでした。

バイクなら悪路や渋滞でもたどり着けるに違いないと思い、凍てつく中、スクーターで西宮へと向かいました。

西宮へ向かうにつれ、道の陥没や家屋の倒壊が増え、ガスの臭いが辺りに立ち込めてきました。

西宮では、木造住宅はほぼ壊滅状態でした。

木造以外にも倒壊している建物はたくさんありました。

元の姿が全く想像できない瓦礫の山に向かって、大声で呼び掛ける人達も見かけました。

あんな瓦礫の中に人がいるのかもしれない。

そんな驚愕の光景を見るのは生まれて初めてのことでした。

兄達の住む家に近づくにつれ、高まる不安。

やっと、たどりついた兄家族の住むハイツが、倒壊せず建っていることにまず安堵。

さらに、兄、義姉、甥や姪たちも全員無事なことを確認できました。


生と死は紙一重


地震の起きるほんの2日前、私は友人と買い物のため、神戸の特に被害の大きかった地域を訪れていました。

紙一重で私も被災していたかもしれないと、今ここにこうしていないかもしれないと考えずにはいられません。

私がいない。
当然息子も生まれていない。

あれから23年。

毎年、この日は地震でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りすると同時に、自分が生きている事を感謝する日になりました。

そして、誰かのために何かできないか、考えさせられる日になったようにも思います。

亡くなったあなたは、私だったのかもしれない。

私の愛する人だったかもしれない。

どうか、どうか安らかに眠ってください。


本日の日めくりカレンダーです。

1月17日(水)


義を見てせざるは勇無きなり

人としてなすべき事を知りながらそれをしないのは勇気がないからだ、の意。