♦転職DAYS♦ シングルマザーの転職奮闘記 ⑥
つぶれない職場で働きたい
こんにちは、たき子です。
シングルマザーの転職奮闘記⑤からの続きです。
2か月連続のリストラ、その前はパワハラ、さらにその前は雇い止めに店舗閉店…と、たった7年間で、転職理由の見本市のような働き方をしてきました。
もともと能天気な性格なのですが、さすがにこの当時はネガティブな空気をまとっていたのかもしれません。
ある日、「いきいき(大阪市のやっている放課後の学童保育のようなもの)」のお迎えのため学校を訪れたとき、息子の一年生の時の担任の先生に出くわしました。
普通に挨拶して別れただけだったのですが、数日後に思いがけずお手紙をいただきました。
「先日お会いした時、気のせいかお顔が暗いように感じました。お母さん、母は強しですよ」
というような内容の事が書かれていました。
自覚していませんでしたが、表情は沈んでいたのだと思います。
以前担任していた生徒の保護者のことを気にかけてくれ、暖かい励ましのお手紙をくれる、その心遣いが本当に嬉しかった。
そうだ、落ち込んでいる場合ではない。とにかく仕事をしなければ。
今度こそ、つぶれない、景気に左右されない職場で働く!
もう、何より優先すべきはその点だと身に染みていました。
それが保育園の調理室で働くことになった理由です。
保育園は数が足りず社会問題になっているほどです。少なくともつぶれることはないだろうと思いました。
8時30分スタートで、息子を留守番させなくてもよい求人が見つかり採用されました。
激務! 保育園の給食室

保育園は激務です。
保育士さんの激務ぶりは昨今話題になることも多いですが、保育士さんだけではありません。
調理師だって相当なもんです。
一日のスケジュール
大量のお茶を沸かして冷ます
朝のオヤツの用意
昼食の下ごしらえ
朝のオヤツの片付け
昼食の調理
昼食の片付け
昼のオヤツの調理
昼のオヤツの片付け
翌日の食器のセット
翌日の給食の下準備
夕方の調理員さんが休みの時は、夕方の延長保育の園児用の夕方のオヤツ作りと片付けまで加わります。
私の勤めていた保育園は食数は120~130食位で、人数としては少なかったのですが、園長の方針で全てが手作りだったため、手間のかかりかたは半端なものではありませんでした。
また、園児の成長に合わせて食材の固さ、味付け、大きさを変える必要もありました。
大変すぎるアレルギー対応食
さらに、全ての給食、全てのオヤツでアレルギー対応しているため、一つのメニューでも作るバリエーションは相当数になりました。
例えばメインがクリームスパゲッティーの場合、
ソースは
・通常タイプ
・牛乳の替わりに豆乳タイプ
・牛乳も大豆も使わないクリームコーン味
麺は
・スパゲッティー
・小麦除去用のビーフン
さらに麺の長さも年少、年中、年長さんで分け、とろみも小麦粉でつける分と片栗粉でつける分があったりします。
多くの自治体の小学校でそうしているように、アレルギーの園児をひとくくりに「除去食」として作るだけならこんなに大変なことにはならないのですが、
「食べられる園児には食べられる食材を使って、できる限り普通食に近いものを食べさせてあげたい」
という栄養士の人と私達調理師の思いでできるだけのことをしていたのです。
もちろんメインの他に、副菜、汁物、フルーツも作らなければなりません。
加えて離乳食の煮物やお粥作りもなども同時進行でした。
これを私の勤めていた保育園では、メインの調理師一人、サブが一人、栄養士が一人、パートが一人か二人で作っていました。
100数十人に対する人数としては多すぎると、園長からは風当たりが強かったのですが、離乳食を潰したり、年少の園児用に刻んだり、部屋まで運んだり、配膳したりすることもあります。
栄養士の人は昼からのオヤツがメインの担当で、午前中は献立作成や栄養の計算、食材の発注などもあり、手伝ってもらえる時間にも限りがありました。
アレルギー食を間違って提供しては大変な事になるため気もつかい、一日終われば肉体的にも精神的にもぐったりでした。
そんな激務を最低賃金でこなしていました。
それでも、園児は可愛いし、美味しいと喜んでもらえたら嬉しい。新しいメニュー作りなど自分の提案も取り入れてもらうこともできる。
低賃金で激務ながらも、やりがいを感じて働いて数年経った頃、すっかり忘れかけていた事を思い出します。
今なら学校給食の調理員になれるかもしれない。
気がつけば息子は高学年になろうとしており、朝の一時間ほどを一人で過ごせるまでに成長していたのです。
ついに念願の学校の給食調理員!

こうして、ついに学校の給食調理員として働くことになりました。
思えば長い道のりでした。
保育園ではパートでしたが、学校給食では契約社員として働け収入が増えます。
学校給食というのは、調理の仕事の中でも特殊な世界で、さまざまな特殊な決まり事にあふれています。
学校給食の詳しい内容については次回、番外編としてお届けしますので、今回は学校給食調理員を始めて、その後どうなったかを書かせていただきます。
私が勤めたのは、大阪市の公立小学校でした。
市職員ではなく、人材派遣会社の派遣です。
大阪市だけでなく全国的な傾向だとは思いますが、予算削減の流れは加速しており、大阪市の小学校給食はその数年前から業務委託化を進めていたのです。
私は業務委託された派遣会社から派遣された契約社員という位置づけでした。
自治体によって3年だったり5年だったり規定が違うのですが、現場責任者になるためには集団給食の経験が必要です。
ここでいう集団給食に保育園は入っておらず、集団給食とは、学校もしくは病院での経験を指すのです。
給食作りは、もちろん細かなマニュアルにのっとって作業するわけですが、マニュアルにはない「行間」とも言える部分は、基本的には現場責任者の采配によって変わってきます。
仕事を続けているうちに、自分のやり方で作りたい、そう思いはじめました。
しかし、私の保育園での経験は集団給食としてのキャリアにはならなったので、最低でも小学校で5年間働く必要がありました。
経験を積んで、5年後には責任者になれるよう頑張ろう。
そして5年が経とうとしていました。
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最後の? 転職
転職DAYSひとまず完結へ
大阪市が業務委託だと先ほど説明しましたが、その決め方は3年毎の完全入札制です。
つまり、どんなに頑張って良いものを提供しようと再契約はなく、入札で他の給食会社に決まってしまう可能性もあるのです。
私が働きだして丸5年経とうとしていたタイミングで、私の勤めている給食会社が大阪市の入札に負け数校の現場を失ってしまいました。
本来は数校増やす予定で、新しい学校の責任者に内定していたのですが、増やすどころか逆に減ってしまったのです。
当然責任者の話もなくなりました。
現場がないのだから仕方がありませんが、同時に昇給の話もなくなりました。
副責任者として責任者のサポートをしてきましたが、特別な手当てはありません。
会社に5年間のキャリアを評価する考えはなく、あくまでも責任者にならないと手当はつかないのだと、その一点張りでした。
会社としては既存の現場を複数失い、人があぶれているのですから、よい条件を提示してくるわけがありません。
もしかすると1年後には新しい現場の入札に勝って、そこで責任者として働けるかもしれない、そんな可能性はありましたが、また負けてさらに数校を失うことだって考えられます。
そんなあてにならない可能性に期待して1年待つ気にはなれませんでした。
この5年、大阪市は給食の業務委託をさらに進め、参入会社は増え、求人も増えていました。
責任者として雇ってもらえる現場はいくつもありました。
大阪市が業務委託を進めているのに対し、給食会社の抱える調理員が不足していたのです。
正確に言うと、調理員はたくさんいました。
けど、大阪市の提示する、5年以上の集団給食経験者(しかも大阪市の給食経験5年が望ましい)という条件が厳しくて、その条件を満たす人材が足りなかったのです。
学校給食は、派遣会社を渡り歩く人が多い業界です。同じ仕事をするならいい条件でと思うのは当然の事でしょう。
義理をたてて同じ会社に残っても、何の保障もないのですから。
そういうわけで、私は5年間勤めた給食会社を退職しました。
その後、違う給食会社に就職し現場責任者になったのか、まったく別の仕事を始めたのか…。
実は相変わらず一筋縄ではいかず、一波乱二波乱起こるのですが、現在進行形なのでここでは語るのをやめ、ひとまず、転職DAYSは完結させていただきます。
思えば、夏休みが欲しいというわがままな願いから端を発した転職の日々、たくさんの辛い経験や悔しい思いはありましたが、ハゲもせず、鬱にもならず働いてこられて、息子も元気に育ってくれた。
それが全てでそれが何より。
今日もまた、頑張っておしごとDaysに励みま~す!
この他の『シングルマザーの転職奮闘記』はこちら
【①出産後最初の仕事『和食チェーン店』で突然の時短勤務通達】
【②『ピザ職人』で調理師免許取るも店舗閉店】
【③『大学生協』パートでたちまち生活苦】
【④『学校購買』雇い止め→『オフィス街のお洒落なオフィス』でのパワハラ】
【⑤『地元メーカー』『個人経営レストラン』2ヶ月連続リストラ】
こんにちは、たき子です。
シングルマザーの転職奮闘記⑤からの続きです。
2か月連続のリストラ、その前はパワハラ、さらにその前は雇い止めに店舗閉店…と、たった7年間で、転職理由の見本市のような働き方をしてきました。
もともと能天気な性格なのですが、さすがにこの当時はネガティブな空気をまとっていたのかもしれません。
ある日、「いきいき(大阪市のやっている放課後の学童保育のようなもの)」のお迎えのため学校を訪れたとき、息子の一年生の時の担任の先生に出くわしました。
普通に挨拶して別れただけだったのですが、数日後に思いがけずお手紙をいただきました。
「先日お会いした時、気のせいかお顔が暗いように感じました。お母さん、母は強しですよ」
というような内容の事が書かれていました。
自覚していませんでしたが、表情は沈んでいたのだと思います。
以前担任していた生徒の保護者のことを気にかけてくれ、暖かい励ましのお手紙をくれる、その心遣いが本当に嬉しかった。
そうだ、落ち込んでいる場合ではない。とにかく仕事をしなければ。
今度こそ、つぶれない、景気に左右されない職場で働く!
もう、何より優先すべきはその点だと身に染みていました。
それが保育園の調理室で働くことになった理由です。
保育園は数が足りず社会問題になっているほどです。少なくともつぶれることはないだろうと思いました。
8時30分スタートで、息子を留守番させなくてもよい求人が見つかり採用されました。
激務! 保育園の給食室

保育園は激務です。
保育士さんの激務ぶりは昨今話題になることも多いですが、保育士さんだけではありません。
調理師だって相当なもんです。
一日のスケジュール
大量のお茶を沸かして冷ます
朝のオヤツの用意
昼食の下ごしらえ
朝のオヤツの片付け
昼食の調理
昼食の片付け
昼のオヤツの調理
昼のオヤツの片付け
翌日の食器のセット
翌日の給食の下準備
夕方の調理員さんが休みの時は、夕方の延長保育の園児用の夕方のオヤツ作りと片付けまで加わります。
私の勤めていた保育園は食数は120~130食位で、人数としては少なかったのですが、園長の方針で全てが手作りだったため、手間のかかりかたは半端なものではありませんでした。
また、園児の成長に合わせて食材の固さ、味付け、大きさを変える必要もありました。
大変すぎるアレルギー対応食
さらに、全ての給食、全てのオヤツでアレルギー対応しているため、一つのメニューでも作るバリエーションは相当数になりました。
例えばメインがクリームスパゲッティーの場合、
ソースは
・通常タイプ
・牛乳の替わりに豆乳タイプ
・牛乳も大豆も使わないクリームコーン味
麺は
・スパゲッティー
・小麦除去用のビーフン
さらに麺の長さも年少、年中、年長さんで分け、とろみも小麦粉でつける分と片栗粉でつける分があったりします。
多くの自治体の小学校でそうしているように、アレルギーの園児をひとくくりに「除去食」として作るだけならこんなに大変なことにはならないのですが、
「食べられる園児には食べられる食材を使って、できる限り普通食に近いものを食べさせてあげたい」
という栄養士の人と私達調理師の思いでできるだけのことをしていたのです。
もちろんメインの他に、副菜、汁物、フルーツも作らなければなりません。
加えて離乳食の煮物やお粥作りもなども同時進行でした。
これを私の勤めていた保育園では、メインの調理師一人、サブが一人、栄養士が一人、パートが一人か二人で作っていました。
100数十人に対する人数としては多すぎると、園長からは風当たりが強かったのですが、離乳食を潰したり、年少の園児用に刻んだり、部屋まで運んだり、配膳したりすることもあります。
栄養士の人は昼からのオヤツがメインの担当で、午前中は献立作成や栄養の計算、食材の発注などもあり、手伝ってもらえる時間にも限りがありました。
アレルギー食を間違って提供しては大変な事になるため気もつかい、一日終われば肉体的にも精神的にもぐったりでした。
そんな激務を最低賃金でこなしていました。
それでも、園児は可愛いし、美味しいと喜んでもらえたら嬉しい。新しいメニュー作りなど自分の提案も取り入れてもらうこともできる。
低賃金で激務ながらも、やりがいを感じて働いて数年経った頃、すっかり忘れかけていた事を思い出します。
今なら学校給食の調理員になれるかもしれない。
気がつけば息子は高学年になろうとしており、朝の一時間ほどを一人で過ごせるまでに成長していたのです。
ついに念願の学校の給食調理員!

こうして、ついに学校の給食調理員として働くことになりました。
思えば長い道のりでした。
保育園ではパートでしたが、学校給食では契約社員として働け収入が増えます。
学校給食というのは、調理の仕事の中でも特殊な世界で、さまざまな特殊な決まり事にあふれています。
学校給食の詳しい内容については次回、番外編としてお届けしますので、今回は学校給食調理員を始めて、その後どうなったかを書かせていただきます。
私が勤めたのは、大阪市の公立小学校でした。
市職員ではなく、人材派遣会社の派遣です。
大阪市だけでなく全国的な傾向だとは思いますが、予算削減の流れは加速しており、大阪市の小学校給食はその数年前から業務委託化を進めていたのです。
私は業務委託された派遣会社から派遣された契約社員という位置づけでした。
自治体によって3年だったり5年だったり規定が違うのですが、現場責任者になるためには集団給食の経験が必要です。
ここでいう集団給食に保育園は入っておらず、集団給食とは、学校もしくは病院での経験を指すのです。
給食作りは、もちろん細かなマニュアルにのっとって作業するわけですが、マニュアルにはない「行間」とも言える部分は、基本的には現場責任者の采配によって変わってきます。
仕事を続けているうちに、自分のやり方で作りたい、そう思いはじめました。
しかし、私の保育園での経験は集団給食としてのキャリアにはならなったので、最低でも小学校で5年間働く必要がありました。
経験を積んで、5年後には責任者になれるよう頑張ろう。
そして5年が経とうとしていました。
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最後の? 転職
転職DAYSひとまず完結へ
大阪市が業務委託だと先ほど説明しましたが、その決め方は3年毎の完全入札制です。
つまり、どんなに頑張って良いものを提供しようと再契約はなく、入札で他の給食会社に決まってしまう可能性もあるのです。
私が働きだして丸5年経とうとしていたタイミングで、私の勤めている給食会社が大阪市の入札に負け数校の現場を失ってしまいました。
本来は数校増やす予定で、新しい学校の責任者に内定していたのですが、増やすどころか逆に減ってしまったのです。
当然責任者の話もなくなりました。
現場がないのだから仕方がありませんが、同時に昇給の話もなくなりました。
副責任者として責任者のサポートをしてきましたが、特別な手当てはありません。
会社に5年間のキャリアを評価する考えはなく、あくまでも責任者にならないと手当はつかないのだと、その一点張りでした。
会社としては既存の現場を複数失い、人があぶれているのですから、よい条件を提示してくるわけがありません。
もしかすると1年後には新しい現場の入札に勝って、そこで責任者として働けるかもしれない、そんな可能性はありましたが、また負けてさらに数校を失うことだって考えられます。
そんなあてにならない可能性に期待して1年待つ気にはなれませんでした。
この5年、大阪市は給食の業務委託をさらに進め、参入会社は増え、求人も増えていました。
責任者として雇ってもらえる現場はいくつもありました。
大阪市が業務委託を進めているのに対し、給食会社の抱える調理員が不足していたのです。
正確に言うと、調理員はたくさんいました。
けど、大阪市の提示する、5年以上の集団給食経験者(しかも大阪市の給食経験5年が望ましい)という条件が厳しくて、その条件を満たす人材が足りなかったのです。
学校給食は、派遣会社を渡り歩く人が多い業界です。同じ仕事をするならいい条件でと思うのは当然の事でしょう。
義理をたてて同じ会社に残っても、何の保障もないのですから。
そういうわけで、私は5年間勤めた給食会社を退職しました。
その後、違う給食会社に就職し現場責任者になったのか、まったく別の仕事を始めたのか…。
実は相変わらず一筋縄ではいかず、一波乱二波乱起こるのですが、現在進行形なのでここでは語るのをやめ、ひとまず、転職DAYSは完結させていただきます。
思えば、夏休みが欲しいというわがままな願いから端を発した転職の日々、たくさんの辛い経験や悔しい思いはありましたが、ハゲもせず、鬱にもならず働いてこられて、息子も元気に育ってくれた。
それが全てでそれが何より。
今日もまた、頑張っておしごとDaysに励みま~す!
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【②『ピザ職人』で調理師免許取るも店舗閉店】
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【⑤『地元メーカー』『個人経営レストラン』2ヶ月連続リストラ】