鶉野(うずらの)飛行場跡を訪れる・前編
少しだけ戦争を語ろうと思います
こんにちは、たき子です。
毎年この時期になれば報道される戦争のドキュメンタリーなどをよく見ているのですが、戦争を知らない人間に戦争を語る資格があるのだろうかと、腰が引けていた私です。
ですが、この夏訪れた加西市で戦争の爪痕に触れ、そのご報告も兼ねて少しだけ語ってみようかと思います。
鶉野飛行場を知ったきっかけ
私が鶉野飛行場のことを知ったのはテレビのニュース番組です。
それは、姫路海軍航空隊の跡地が兵庫県加西市鶉野町に残されており、長年自衛隊の管轄だったため、ほとんど手付かずの状態だという特集ニュースでした。
昨年防衛省から財務省へ管轄が移り、さらに加西市へ払い下げられ、一般の立ち入りが可能となったとのことです。
8月のこの時期、日本人として戦争に向き合っておきたい。
そんな気持ちで友人を誘って鶉野飛行場跡を訪れることにしたのです。
鶉野飛行場跡とは
鶉野飛行場は、1943年(昭和18年)10月に開隊された姫路海軍航空隊の基地です。
1942年(昭和17年)のミッドウェー作戦の失敗により、日本海軍は制空権の重要性を認識し、パイロットを急きょ養成するため航空兵力を増やしたのだそうです。
鶉野に作られた姫路海軍航空隊は、実用訓練を行う練習部隊で、ここで練習を終えた練習生が全国の航空隊に赴任していったという歴史があります。
現在、加西市ではハイキングマップを作り。ハイキングコースとして観光客に公開しています。
試験飛行のための滑走路や地下指揮所、防空壕、機銃座などを見ることができますが、ハイキングマップに掲載されている施設に入るには許可が必要とのことなので、加西市の「加西観光ナビ」のホームページで調べた問い合わせ先に連絡し、ボランティアガイドを申し込みました。
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鶉野飛行場跡へ出発
残暑厳しい8月、友人と中学生になる友人の息子さん、友人のお母さんとその友達とで、友人の車で鶉野飛行場跡へ向かいました。
加西インターを降り、フラワーセンターの方角へ南下すると、ボランティアガイドさんと待ち合わせの「鶉野飛行場資料館」に到着しました。
「鶉野飛行場資料館」は、鶉野飛行場に関する多数の資料などが電磁されている資料館で、個人で建てられ運営されているそうです。
館長さんの不在のため、中の資料をみることはできませんでした。
最初は鶉野飛行場跡と記念碑
この日集まったのは、私達を含めた10数名。
ボランティアガイドさんの車についてまず向かったのは飛行場跡です。
資料館を出てすぐ、まっすぐの道のような箇所がでてきました。
「まさか、滑走路ってこれ?」
そのまさかでした。
そこは、一見田舎の作業場へ続く道のようで、
ロープで入れないようにはしているものの、普通にトラックが走っていてもおかしくない普通の道のように見えました。
滑走路の脇に記念碑に記念碑があり、一同その横に車を停めました。
姫路海軍より編成され鶉野で訓練したのち、鹿児島より出撃して沖縄沖で戦死した神風特別攻撃隊“白鷺隊”などのいくつかの記念碑が立てられてありました。
記念碑の横には戦闘機の整備台が。
記念碑の横には海軍の旗。
旗のうしろの飛行機雲が嫌でも当時を連想させます。
地下指揮所には特攻隊員の遺書も
飛行場を後にし、次に向かったのは地下飛行指揮所跡です。
駐車場の背後にあるのが防空壕で、コンクリートでできています。
当時は敵に見つかりにくいよう土で覆われていたそうです。
500キロ爆弾にも耐える強固な構造だそうです。
駐車場の横に地下への入口が。
ボランティアガイドさんに鍵を空けてもらい中へ。
地下へ続く階段。
外の爆風が届きにくいよう、通路は曲がりくねっています。
中にはさまざまな写真や新聞記事、模型などの資料が展示されています。
この地下防空壕が完成したのは昭和20年5月だとのこと。
終戦が昭和20年8月ですから終戦直前ですね。
この防空壕の中は、戦後水がたまり、中の構造がわからなかったそうですが、2011年8月水を組みだし日の目を見たのだと書かれてありました。
ここ鶉野で編成され、沖縄で戦死した特攻隊“白鷺隊”の、隊員が残した遺書の内容も展示されていました。
地下飛行指揮所から出ると、向かいには牛舎が。
車窓から見た牛舎と牧場。
神戸大学農学部の施設だそう。
鶉野飛行場跡の施設のいくつかは、神戸大学管轄内にあります。
かつて特攻隊員も歩いたであろうこの地には今、何頭もの牛がのんびりと草を食んでいました。
【鶉野飛行場跡を訪れる・中編に続く】
【鶉野飛行場跡を訪れる・後編はこちら】
こんにちは、たき子です。
毎年この時期になれば報道される戦争のドキュメンタリーなどをよく見ているのですが、戦争を知らない人間に戦争を語る資格があるのだろうかと、腰が引けていた私です。
ですが、この夏訪れた加西市で戦争の爪痕に触れ、そのご報告も兼ねて少しだけ語ってみようかと思います。
鶉野飛行場を知ったきっかけ
私が鶉野飛行場のことを知ったのはテレビのニュース番組です。
それは、姫路海軍航空隊の跡地が兵庫県加西市鶉野町に残されており、長年自衛隊の管轄だったため、ほとんど手付かずの状態だという特集ニュースでした。
昨年防衛省から財務省へ管轄が移り、さらに加西市へ払い下げられ、一般の立ち入りが可能となったとのことです。
8月のこの時期、日本人として戦争に向き合っておきたい。
そんな気持ちで友人を誘って鶉野飛行場跡を訪れることにしたのです。
鶉野飛行場跡とは
鶉野飛行場は、1943年(昭和18年)10月に開隊された姫路海軍航空隊の基地です。
1942年(昭和17年)のミッドウェー作戦の失敗により、日本海軍は制空権の重要性を認識し、パイロットを急きょ養成するため航空兵力を増やしたのだそうです。
鶉野に作られた姫路海軍航空隊は、実用訓練を行う練習部隊で、ここで練習を終えた練習生が全国の航空隊に赴任していったという歴史があります。
現在、加西市ではハイキングマップを作り。ハイキングコースとして観光客に公開しています。
試験飛行のための滑走路や地下指揮所、防空壕、機銃座などを見ることができますが、ハイキングマップに掲載されている施設に入るには許可が必要とのことなので、加西市の「加西観光ナビ」のホームページで調べた問い合わせ先に連絡し、ボランティアガイドを申し込みました。
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鶉野飛行場跡へ出発
残暑厳しい8月、友人と中学生になる友人の息子さん、友人のお母さんとその友達とで、友人の車で鶉野飛行場跡へ向かいました。
加西インターを降り、フラワーセンターの方角へ南下すると、ボランティアガイドさんと待ち合わせの「鶉野飛行場資料館」に到着しました。
「鶉野飛行場資料館」は、鶉野飛行場に関する多数の資料などが電磁されている資料館で、個人で建てられ運営されているそうです。
館長さんの不在のため、中の資料をみることはできませんでした。
最初は鶉野飛行場跡と記念碑
この日集まったのは、私達を含めた10数名。
ボランティアガイドさんの車についてまず向かったのは飛行場跡です。
資料館を出てすぐ、まっすぐの道のような箇所がでてきました。
「まさか、滑走路ってこれ?」
そのまさかでした。
そこは、一見田舎の作業場へ続く道のようで、
ロープで入れないようにはしているものの、普通にトラックが走っていてもおかしくない普通の道のように見えました。
滑走路の脇に記念碑に記念碑があり、一同その横に車を停めました。
姫路海軍より編成され鶉野で訓練したのち、鹿児島より出撃して沖縄沖で戦死した神風特別攻撃隊“白鷺隊”などのいくつかの記念碑が立てられてありました。
記念碑の横には戦闘機の整備台が。
記念碑の横には海軍の旗。
旗のうしろの飛行機雲が嫌でも当時を連想させます。
地下指揮所には特攻隊員の遺書も
飛行場を後にし、次に向かったのは地下飛行指揮所跡です。
駐車場の背後にあるのが防空壕で、コンクリートでできています。
当時は敵に見つかりにくいよう土で覆われていたそうです。
500キロ爆弾にも耐える強固な構造だそうです。
駐車場の横に地下への入口が。
ボランティアガイドさんに鍵を空けてもらい中へ。
地下へ続く階段。
外の爆風が届きにくいよう、通路は曲がりくねっています。
中にはさまざまな写真や新聞記事、模型などの資料が展示されています。
この地下防空壕が完成したのは昭和20年5月だとのこと。
終戦が昭和20年8月ですから終戦直前ですね。
この防空壕の中は、戦後水がたまり、中の構造がわからなかったそうですが、2011年8月水を組みだし日の目を見たのだと書かれてありました。
ここ鶉野で編成され、沖縄で戦死した特攻隊“白鷺隊”の、隊員が残した遺書の内容も展示されていました。
地下飛行指揮所から出ると、向かいには牛舎が。
車窓から見た牛舎と牧場。
神戸大学農学部の施設だそう。
鶉野飛行場跡の施設のいくつかは、神戸大学管轄内にあります。
かつて特攻隊員も歩いたであろうこの地には今、何頭もの牛がのんびりと草を食んでいました。
【鶉野飛行場跡を訪れる・中編に続く】
【鶉野飛行場跡を訪れる・後編はこちら】