鶉野(うずらの)飛行場跡を訪れる・後編
鶉野飛行場跡を訪れる・中編より続き
ガイドさんと別れ法華口駅へ
こんにちは、たき子です。
昨日、一昨日に引き続き、加西市の旧姫路海軍鶉野飛行場跡のレポートの最後です。
前編では、滑走路、慰霊碑、指揮所跡を、中編では各所に残る防空壕跡を順番に回りました。
約一時間半、鶉野飛行場跡を案内していただき、ボランティアガイドさんたちと別れた私達が次に向かったのは法華口駅でした。
鶉野飛行場跡の玄関口でもある法華口駅。

駅舎の横には三重の塔、

駅前にはハイキングコースの案内板があります。

駅舎内にも戦争を感じさせるものが。
自衛隊の勧誘DVDも置いてあります。
ホームに入ってみます。
開札がなく出入り自由なのが嬉しい。
レトロなホーム。
駅名板は2種類。
ちょうど電車が近づいてきました。
緑の中を紫のワンマンカー。
駅舎内にはパン屋さんがあり、電車をデザインした食パンなどが売られています。
電車の食パンは残念ながら要予約で手に入りませんでした。
その後法華口駅を後にし、昼ごはんを食べ、五百羅漢に寄って帰ったのですが、その様子はまた明日ご報告させていただきますね。
3回に渡る鶉野飛行場跡のレポートは以上でおしまいですが、最近の戦争報道の中で特に印象的ものを少し拾い上げてみたいと思いますので、よければもう少しおつきあい下さい。
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その前に、私が戦争を意識し始めたきっかけを。
『はだしのゲン』と
『戦争を知らない子供達』
私が戦争を意識した一番最初は小学生の頃。
漫画「はだしのゲン」を読んだ時の事です。
喫茶店通いが趣味の母。
その母について通った喫茶店においてあったのが週刊少年ジャンプでした。
その連載で「はだしのゲン」を読み、原爆の恐ろしさに震えながらも、続きを読むため、毎週母にくっついて喫茶店に通いました。
その数年後、子ども向けドラマ“ケンちゃんシリーズ”で、ジローズの歌う「戦争を知らない子供達」を聞きました。
ドラマの内容はさっぱり覚えていませんが、その中で歌われた「戦争を知らない子供達」を聞き、子ども心に自分が戦争を知らない世代であることが申し訳なくて、涙が止まらなかったことを強く印象に残っています。
知らなかった戦争の歴史が
まだまだたくさんある
毎年8月が近づくと多くの戦争特集が報道されます。
私自身は、親から戦争の話を聞くことはあまりありませんでした。
両親とも、終戦時は10代前半で、戦争の記憶ははっきりと残っている年齢でしたが、空襲や疎開の事などはあまり語りたがりませんでした。
親も語りませんし、報道の中には想像を絶する悲惨な様子が描かれた物も多く、胸に熱い塊を飲み込んだような気分になることも多いのですが、私自身は知っておきたいという気持ちのほうが強く、避けずになるべく見聞きするようにしているんです。
NHKスペシャルより
『731部隊の真実』
人体実験の責任否定した主導者
8月12~15日の4夜連続で放送されたNHKスペシャルの戦争特番。
第2話「731部隊の真実」では、旧満州で密かに細菌兵器を開発するため、日本中から高名な医学者が集められ、中国や旧ソ連の人々を実験材料にした「731部隊」が裁かれる音声記録を元に当時の様子や、なぜ医学者は歯止めをかけられなかったかなどを検証しています。
人体実験の様子なども、もちろん身の毛がよだつような話ばかりでしたが、その中でも特に印象に残ったのは主導者の態度でした。
終戦後、軍人の多くが我れ先に満州から逃げ出したのと同じく、医学者も特別の列車をあてがわれ、いち早く帰国したそうです。
多数の中国残留孤児を生んだように、一般の国民が引き揚げに苦慮したにもかかわらず。
しかも、機密を守るため、囚人と称して集めていた中国や旧ソ連の人々を総て殺害し、証拠隠滅のため施設を徹底的に破壊して。
責任を免除され
戦後地位を築いた主導者たち
そんな彼ら主導者たちに対し、アメリカは、人体実験データと引き換えに責任を免除します。
主導した医学者の中には、大学の学長になった者いれば、戦後も医学界の重鎮や権威者となった者もいたそうです。
あるものは口を閉ざし、あるものは自身の責任を完全に否定し続けて。
多くの主導者は真っ先に逃げ、責任を逃れましたが、逃げ遅れソ連に拘留された人の中には、戦後初めて自分の罪の重さに気づき、後悔に苛まれている人もいたと番組の最後に語られていました。
そんな医学者の一人、柄沢十三夫の裁判での肉声が残されていました。
「私は、将来もし生まれ変わって余生がありましたら、自分の行いました悪事に対しまして、生まれ変わった人間として人類のために尽くしたいと思っております」
こうして文字にするとさほど重みを感じませんし、口では何とでも言えるだろうと言いたくなりますが、そこには、当事者の肉声だけが持つ悲痛な心の叫びがありました。
震える声。
絞り出すような一言一言。
時おり声を詰まらせそうになりながらも、自分の思いを語っておかなければならないと意思がありました。
彼は、刑に服した後、自殺したと伝えられているそうです。
太平洋戦争で最も無謀と言われた
『インパール作戦』
もう一つ今年見た報道の中で印象に残った物をご紹介したいと思います。
それが「インパール作戦」です。
731部隊のことは、これまでも見聞きしていましたが、恥ずかしながらインパール作戦のことは全く知りませんでした。
「インパール作戦」という言葉を最初に耳にしたのは、現在放送されている朝ドラ「ひよっこ」です。
主人公みね子の叔父宗男の出生先として、ドラマの中でインパールの名前を初めて聞きました。
宗男の
「ビートルズ、俺は笑って生きてっとう!」
と叫ぶ声が印象的だったんです。
その後で見たのが、やはりNHKスペシャル戦争特番の4話目「インパール作戦」です。
なされなかった物資の補給
6割が作戦中止後の餓死や病死
73年前日本軍は、インドとミャンマーの国境、川幅600mの大河と2000m級の山々が連なる険しい山岳地帯を超え、470kmを行軍するという前代未聞の作戦を決行しました。
目指したのはインド北東部の町インパール。
しかし、イギリス軍の猛攻の前に誰一人たどりつけず、3万人が命を落としたそうです。
3週間の短期決戦を計画していたにも関わらず、作戦が中止されたのは4ヶ月後で、3週間分の食料しかもっていない兵士に物資の補給はされず、餓えと病と疲労で次々に倒れていきます。
撤退は半年たってもおわらず、インパール作戦で戦士した兵士の6割が作戦中止後の撤退中の餓死や病死だったというのです。
反対する者を更迭し、補給不可能という意見をことごとく卑怯者と叱責して退け、戦争の現実を無視して無謀な作戦を強行した陸軍上層部は、全員が自らを正当化し、戦後も責任に向き合おうとはしなかったそうです。
組織の人間関係で認可された
インパール作戦は、戦況の悪化した戦局を打開してほしいという大本営の希望で、盧溝橋事件の連隊長でもあった牟田口司令官が指揮をとります。
無謀な作戦が認可されたのは、作戦部長の手記に「結局人情論に負けたのだ」と書き残されているように、冷静な分析よりも組織内の人間関係が優先されたようです。
敗色が濃厚になった後も、牟田口司令官は新聞社に対して戦局は優勢だと嘘の話をし、大本営のトップ東條英機も天皇にも嘘の報告をしたという話です。
やめたくてもやめられない、全滅してもいいからインパールを取れというんです そう語る参謀の声がテープに残されていました。
5000人殺せば取れる
「5000人殺せば取れる」
牟田口司令官に仕えていた齋藤少尉がこんな記録を残しています。
「牟田口司令官から作戦参謀にどれ位の損害がでるか質問があり、はい、5000人殺せば取れると思いますと返事。最初は敵を5000人殺せば取れるのかと思った。それは味方の師団で5000人の損害が出るということだった。まるで虫けらでも殺すみたいに隷下部隊の損害を表現する」
食糧も武器も弾薬もない。
そんな状況下での戦いを、兵士に強いていた上層部。
齋藤少尉の言うように、兵士を虫けら同様としか思っていなかったからこそそんな愚策を強行できたのでしょう。
彼らは何のために死んでいったのか、なぜそんな死にかたをしなければならなかったのか。
愚かな上層部のしでかした愚かな作戦と言ってしまうにはあまりにも悲惨すぎます。
5000人殺せば取れるという会話を聞いていた齋藤少尉が取材インタビューに答えています。
その言葉に、それが現実なのだと暗澹たる思いになります。
「悔しいけど兵隊に対する考えはそんなもんです」
「自分は責任者ではない」
最も無責任だった責任者たち
731部隊にせよ、インパール作戦にせよ、作戦を立案指揮していた本来最も責任のある立場の人間が最も無責任だったという事実に愕然としました。
罪の意識に自分を責める者の多くは、トップではなく、なぜ部下たちだったのか。
なぜ、組織のトップというものは、そんなにも無責任でいられるのか。
多くの会社、多くの政治家が似たような無責任体質の日本を見ると、心配するなというほうが無理というものです。
傍観者ではなく加担者だった世論
話は戻りますが、NHKスペシャルでは、なぜ731部隊で人の命を守るべき医学者が一線を超えたのか、それを後押ししたのは日本国内の世論だと考察しています。
日中戦争の激化に伴い、政府もメディアも日本側の犠牲を強調し、中国人への憎悪を駆り立てました。そうした時代の空気と研究者は無縁ではなかったと断罪しているのです。
自分ならどうするんだろう
時おり、息子を持つ親として、もしもいつかわが子を戦争に送り出さないといけないことになったらどうしよう、と考えることがあります。
漫画『ブラックジャック』で、戦場に息子を送らないようにするため、息子の足を切り落とそうとする母親の話があります。
いざそんな状況になれば、私もその母親と同じことをしようとするかもしれません。
戦争に送り出すくらいなら、死ぬくらいならいっそ、思い詰めるかもしれません。
絶対に息子は戦場には送りこませない。
何がなんでも。
この先日本が戦場にならないように、そしてこの世から戦争がなくなるように切に、切に願う、私は、そんな母親の一人です。
【鶉野飛行場跡を訪れる・前編はこちら】
【鶉野飛行場跡を訪れる・中編はこちら】
ガイドさんと別れ法華口駅へ
こんにちは、たき子です。
昨日、一昨日に引き続き、加西市の旧姫路海軍鶉野飛行場跡のレポートの最後です。
前編では、滑走路、慰霊碑、指揮所跡を、中編では各所に残る防空壕跡を順番に回りました。
約一時間半、鶉野飛行場跡を案内していただき、ボランティアガイドさんたちと別れた私達が次に向かったのは法華口駅でした。
鶉野飛行場跡の玄関口でもある法華口駅。
駅舎の横には三重の塔、
駅前にはハイキングコースの案内板があります。
駅舎内にも戦争を感じさせるものが。
自衛隊の勧誘DVDも置いてあります。
ホームに入ってみます。
開札がなく出入り自由なのが嬉しい。
レトロなホーム。
駅名板は2種類。
ちょうど電車が近づいてきました。
緑の中を紫のワンマンカー。
駅舎内にはパン屋さんがあり、電車をデザインした食パンなどが売られています。
電車の食パンは残念ながら要予約で手に入りませんでした。
その後法華口駅を後にし、昼ごはんを食べ、五百羅漢に寄って帰ったのですが、その様子はまた明日ご報告させていただきますね。
3回に渡る鶉野飛行場跡のレポートは以上でおしまいですが、最近の戦争報道の中で特に印象的ものを少し拾い上げてみたいと思いますので、よければもう少しおつきあい下さい。
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その前に、私が戦争を意識し始めたきっかけを。
『はだしのゲン』と
『戦争を知らない子供達』
私が戦争を意識した一番最初は小学生の頃。
漫画「はだしのゲン」を読んだ時の事です。
喫茶店通いが趣味の母。
その母について通った喫茶店においてあったのが週刊少年ジャンプでした。
その連載で「はだしのゲン」を読み、原爆の恐ろしさに震えながらも、続きを読むため、毎週母にくっついて喫茶店に通いました。
その数年後、子ども向けドラマ“ケンちゃんシリーズ”で、ジローズの歌う「戦争を知らない子供達」を聞きました。
ドラマの内容はさっぱり覚えていませんが、その中で歌われた「戦争を知らない子供達」を聞き、子ども心に自分が戦争を知らない世代であることが申し訳なくて、涙が止まらなかったことを強く印象に残っています。
知らなかった戦争の歴史が
まだまだたくさんある
毎年8月が近づくと多くの戦争特集が報道されます。
私自身は、親から戦争の話を聞くことはあまりありませんでした。
両親とも、終戦時は10代前半で、戦争の記憶ははっきりと残っている年齢でしたが、空襲や疎開の事などはあまり語りたがりませんでした。
親も語りませんし、報道の中には想像を絶する悲惨な様子が描かれた物も多く、胸に熱い塊を飲み込んだような気分になることも多いのですが、私自身は知っておきたいという気持ちのほうが強く、避けずになるべく見聞きするようにしているんです。
NHKスペシャルより
『731部隊の真実』
人体実験の責任否定した主導者
8月12~15日の4夜連続で放送されたNHKスペシャルの戦争特番。
第2話「731部隊の真実」では、旧満州で密かに細菌兵器を開発するため、日本中から高名な医学者が集められ、中国や旧ソ連の人々を実験材料にした「731部隊」が裁かれる音声記録を元に当時の様子や、なぜ医学者は歯止めをかけられなかったかなどを検証しています。
人体実験の様子なども、もちろん身の毛がよだつような話ばかりでしたが、その中でも特に印象に残ったのは主導者の態度でした。
終戦後、軍人の多くが我れ先に満州から逃げ出したのと同じく、医学者も特別の列車をあてがわれ、いち早く帰国したそうです。
多数の中国残留孤児を生んだように、一般の国民が引き揚げに苦慮したにもかかわらず。
しかも、機密を守るため、囚人と称して集めていた中国や旧ソ連の人々を総て殺害し、証拠隠滅のため施設を徹底的に破壊して。
責任を免除され
戦後地位を築いた主導者たち
そんな彼ら主導者たちに対し、アメリカは、人体実験データと引き換えに責任を免除します。
主導した医学者の中には、大学の学長になった者いれば、戦後も医学界の重鎮や権威者となった者もいたそうです。
あるものは口を閉ざし、あるものは自身の責任を完全に否定し続けて。
多くの主導者は真っ先に逃げ、責任を逃れましたが、逃げ遅れソ連に拘留された人の中には、戦後初めて自分の罪の重さに気づき、後悔に苛まれている人もいたと番組の最後に語られていました。
そんな医学者の一人、柄沢十三夫の裁判での肉声が残されていました。
「私は、将来もし生まれ変わって余生がありましたら、自分の行いました悪事に対しまして、生まれ変わった人間として人類のために尽くしたいと思っております」
こうして文字にするとさほど重みを感じませんし、口では何とでも言えるだろうと言いたくなりますが、そこには、当事者の肉声だけが持つ悲痛な心の叫びがありました。
震える声。
絞り出すような一言一言。
時おり声を詰まらせそうになりながらも、自分の思いを語っておかなければならないと意思がありました。
彼は、刑に服した後、自殺したと伝えられているそうです。
太平洋戦争で最も無謀と言われた
『インパール作戦』
もう一つ今年見た報道の中で印象に残った物をご紹介したいと思います。
それが「インパール作戦」です。
731部隊のことは、これまでも見聞きしていましたが、恥ずかしながらインパール作戦のことは全く知りませんでした。
「インパール作戦」という言葉を最初に耳にしたのは、現在放送されている朝ドラ「ひよっこ」です。
主人公みね子の叔父宗男の出生先として、ドラマの中でインパールの名前を初めて聞きました。
宗男の
「ビートルズ、俺は笑って生きてっとう!」
と叫ぶ声が印象的だったんです。
その後で見たのが、やはりNHKスペシャル戦争特番の4話目「インパール作戦」です。
なされなかった物資の補給
6割が作戦中止後の餓死や病死
73年前日本軍は、インドとミャンマーの国境、川幅600mの大河と2000m級の山々が連なる険しい山岳地帯を超え、470kmを行軍するという前代未聞の作戦を決行しました。
目指したのはインド北東部の町インパール。
しかし、イギリス軍の猛攻の前に誰一人たどりつけず、3万人が命を落としたそうです。
3週間の短期決戦を計画していたにも関わらず、作戦が中止されたのは4ヶ月後で、3週間分の食料しかもっていない兵士に物資の補給はされず、餓えと病と疲労で次々に倒れていきます。
撤退は半年たってもおわらず、インパール作戦で戦士した兵士の6割が作戦中止後の撤退中の餓死や病死だったというのです。
反対する者を更迭し、補給不可能という意見をことごとく卑怯者と叱責して退け、戦争の現実を無視して無謀な作戦を強行した陸軍上層部は、全員が自らを正当化し、戦後も責任に向き合おうとはしなかったそうです。
組織の人間関係で認可された
インパール作戦は、戦況の悪化した戦局を打開してほしいという大本営の希望で、盧溝橋事件の連隊長でもあった牟田口司令官が指揮をとります。
無謀な作戦が認可されたのは、作戦部長の手記に「結局人情論に負けたのだ」と書き残されているように、冷静な分析よりも組織内の人間関係が優先されたようです。
敗色が濃厚になった後も、牟田口司令官は新聞社に対して戦局は優勢だと嘘の話をし、大本営のトップ東條英機も天皇にも嘘の報告をしたという話です。
やめたくてもやめられない、全滅してもいいからインパールを取れというんです そう語る参謀の声がテープに残されていました。
5000人殺せば取れる
「5000人殺せば取れる」
牟田口司令官に仕えていた齋藤少尉がこんな記録を残しています。
「牟田口司令官から作戦参謀にどれ位の損害がでるか質問があり、はい、5000人殺せば取れると思いますと返事。最初は敵を5000人殺せば取れるのかと思った。それは味方の師団で5000人の損害が出るということだった。まるで虫けらでも殺すみたいに隷下部隊の損害を表現する」
食糧も武器も弾薬もない。
そんな状況下での戦いを、兵士に強いていた上層部。
齋藤少尉の言うように、兵士を虫けら同様としか思っていなかったからこそそんな愚策を強行できたのでしょう。
彼らは何のために死んでいったのか、なぜそんな死にかたをしなければならなかったのか。
愚かな上層部のしでかした愚かな作戦と言ってしまうにはあまりにも悲惨すぎます。
5000人殺せば取れるという会話を聞いていた齋藤少尉が取材インタビューに答えています。
その言葉に、それが現実なのだと暗澹たる思いになります。
「悔しいけど兵隊に対する考えはそんなもんです」
「自分は責任者ではない」
最も無責任だった責任者たち
731部隊にせよ、インパール作戦にせよ、作戦を立案指揮していた本来最も責任のある立場の人間が最も無責任だったという事実に愕然としました。
罪の意識に自分を責める者の多くは、トップではなく、なぜ部下たちだったのか。
なぜ、組織のトップというものは、そんなにも無責任でいられるのか。
多くの会社、多くの政治家が似たような無責任体質の日本を見ると、心配するなというほうが無理というものです。
傍観者ではなく加担者だった世論
話は戻りますが、NHKスペシャルでは、なぜ731部隊で人の命を守るべき医学者が一線を超えたのか、それを後押ししたのは日本国内の世論だと考察しています。
日中戦争の激化に伴い、政府もメディアも日本側の犠牲を強調し、中国人への憎悪を駆り立てました。そうした時代の空気と研究者は無縁ではなかったと断罪しているのです。
自分ならどうするんだろう
時おり、息子を持つ親として、もしもいつかわが子を戦争に送り出さないといけないことになったらどうしよう、と考えることがあります。
漫画『ブラックジャック』で、戦場に息子を送らないようにするため、息子の足を切り落とそうとする母親の話があります。
いざそんな状況になれば、私もその母親と同じことをしようとするかもしれません。
戦争に送り出すくらいなら、死ぬくらいならいっそ、思い詰めるかもしれません。
絶対に息子は戦場には送りこませない。
何がなんでも。
この先日本が戦場にならないように、そしてこの世から戦争がなくなるように切に、切に願う、私は、そんな母親の一人です。
【鶉野飛行場跡を訪れる・前編はこちら】
【鶉野飛行場跡を訪れる・中編はこちら】